慶沢園と天王寺界隈
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 古墳の周囲一帯は天王寺公園となっており、この古墳も公園の一部として遊歩道が整備されている。
 慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では茶臼山一帯が徳川家康の本陣となり、翌慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では真田信繁(幸村)の本陣となって「茶臼山の戦い(天王寺口の戦い)」の舞台となった。
 公園本体との間には河底池(かわぞこいけ、通称ちゃぶいけとも言う)があるが、これは延暦7年(788年)に和気清麻呂が、大和川や河内湖の排水と水運のために上町台地をここで開削しようとして失敗した跡地とも言われる。
 同地を古墳とするかは説が分かれる。 古来荒陵、または荒陵山と呼ばれてきた同地は古墳と伝承され、ここから発掘されたとされる石棺蓋が四天王寺に伝わっている。古地図の形状からも追認され、そのため従来前方後円墳といわれてきた。
 しかし1986年(昭和61年)の発掘調査の結果では埴輪や葺石などが確認されなかったことから、「古墳ではない」とする説も現れた。
 一方、四天王寺境内の発掘調査で埴輪などが出土しており、茶臼山古墳を含めさらなる周囲の発掘の進展が望まれる状況にある。
 2009年の発掘調査で水銀朱を塗られた石室らしきものが発掘されたことが発表されている。詳しい発掘結果の公表が待たれる。

茶臼山古墳と河底池



茶臼山01 茶臼山02 茶臼山03

茶臼山04 茶臼山05 茶臼山06

茶臼山07 茶臼山08 茶臼山09