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高槻商工会議所の南側 |
戦国時代末期、高槻は近畿地方におけるキリスト教布教の中心地でした。
宣教師ルイス・フロイスの記録によると、天正2年(1574)に高槻城主高山右近(ジュスト)と父の飛騨守(ダリオ)は、古社の位置に池や庭園をともなった教会堂を建立し、この教会堂を拠点にキリスト教布教に力を注ぎました。高山右近の明石転封の後、しばらくして古社は元の場所に復帰したと伝えられていることから、当地周辺に教会堂があったと推定されています。
高槻市教育委員会が平成10年(1998)におこなった高槻城三の丸発掘調査で、蓋に十字架を墨書した木棺を含むキリシタンの墓地が発見され、教会堂に付属した墓地の一端が明らかとなりました。
高槻城跡の一角を占める当地は、日本におけるキリスト教布教の歴史を考えるうえで重要な位置にあることから、昭和24年(1949)5月9日に大阪府史跡に指定されました。
平成11年7月27日 大阪府教育委員会・高槻市教育委員会